DIAGNOSIS & PRESCRIPTION

近代のズレを
野遊びで復元する

カイヨワは遊びを四つに分類した。見事だった。
しかし園庭に毎日通う母親だけが、
その分類の外にある生命を知っていた。

母親は知っていた
カイヨワは気づけなかった

その差が、近代のズレの正体だ。

近代のズレの事例──カイヨワの遊び論。
近代のズレの処方箋──野遊びスクール。

THE DIAGNOSIS ── CASE STUDY

見事な分類には、見事な死角がある

ロジェ・カイヨワは遊びを四つに分類した。競争(アゴン)、偶然(アレア)、模擬(ミミクリー)、眩暈(イリンクス)。一九五八年に発表されたこの分類は、半世紀以上にわたって遊び論の基盤であり続けている。スポーツもギャンブルもごっこ遊びもジェットコースターも、この四つのどれかに収まる。

01
競争
Agôn
勝敗を競う快。スポーツ、チェス、受験。能力を比較し、優劣を決定する。
競争の快を味わう「私」
02
偷然
Alea
運に身を委ねる快。ギャンブル、くじ引き、サイコロ。制御を手放す快楽。
偶然に委ねる「私」
03
模擬
Mimicry
何かになりきる快。ごっこ遊び、演劇、コスプレ。別の存在を生きる。
何かになりきる「私」
04
眩暈
Ilinx
感覚の混乱に酔う快。ジェットコースター、回転遊具、スカイダイビング。
眩暈に酔う「私」

見事な分類だ。しかし一つ、決定的な前提がある。四つすべてが「私が楽しむ」という主語を持っている。競争の快を味わう私、偶然に身を委ねる私、何かになりきる私、眩暈に酔う私。カイヨワの遊びは、能動態の遊びなのだ。

四つの遊びに、五番目の層がある。
カイヨワは見なかった。
園庭に毎日通う母親だけが知っていた。

THE GARDEN

園児の鬼ごっこは、四類型のどこにも収まらない

三歳、四歳、五歳の子どもたちが鬼ごっこをしているとき、彼らは鬼ごっこというゲームを楽しんでいるのではない。鬼が誰かを捕まえる快も、逃げ切るスリルも、もちろんある。しかしそれは二次的なものだ。一次的なものは、みんなでつくっているこの空間そのものだ。

走っている子も。追いかけている子も。転んで泣いている子も、端っこでぼうっとしている子も、全員がこの空間の一部であり、全員でこの空間をつくっている。誰かが抜けたら、この空間自体が変わる。ゲームが成立しなくなるのではない。空間の質が変わるのだ。

MINNA DE TSUKURU KUKAN みんなでつくる空間

息子が5歳の時「思い出ってどんな意味?」と私に聞いてきて、本人が即座に自分で答えた。
「いつもありがとう。そして、みんなありがとう」。
彼が指していたのは、この空間のことだ。みんなでつくっている、みんながいる、あの場所のこと。

カイヨワの問いは「人は遊びの中で何を経験するか」だった。しかし園児の鬼ごっこが問いかけているのは、それ以前の層だ。「遊びの中で経験する主体が、まだ分離していない状態とは何か」。
ACTIVE VOICE vs MIDDLE VOICE

カイヨワ的遊びと西田的遊び

西田幾多郎はこの層を「場所」と呼んだ。個と個が関係するのではなく、場所そのものが生きている。園児は鬼ごっこを「する」のでも「させられる」のでもない。鬼ごっこが「起きている」、その中にみんながいる。國分功一郎が古代ギリシア語の中に発見した中動態──主語が過程の座であり、過程の内部にいる──が、園児の遊びの中にはまだ息づいている。

カイヨワの遊び
能動態
「私が」競争する
「私が」模倣する
主語がある
到達点がある
個が先、場所が後
分析できる
VS
園庭の遊び
中動態
「遊びが」起きている
「楽しみが」生成している
主語が溶けている
過程が開いている
場所が先、個が後
体感するしかない

大人はカイワワ的に遊ぶ。子どもは西田的に遊ぶ。この差が、「大人のみんな」と「子どものみんな」の差の正体だ。

FIVE FAILURES

カイヨワの失敗──五つの層

カイヨワへの敬意は揺るがない。彼の分類は見事だった。しかし見事さの中にこそ、構造的な死角がある。その死角を、五つの層で記述する。

01
四類型が「私が楽しむ」を前提にしている
競争の快を味わう私、偶然に身を委ねる私、何かになりきる私、眩暈に酔う私。四つすべてに主語がある。園児の「みんなでつくる空間」は主語が溶けている──カイヨワの四類型のどこにも収まらない。
02
パイディアの中にすでに「個」を読み込んだ
カイヨワは幼児の原初的遊び(パイディア)を認識していた。しかしその記述が「自己を主張し、自分を原因と感じ、他人の注意を自分に向けさせようとする」。幼児の中にすでに「私」を見ている。記述の文法が能動態しかなかった。
03
園庭の記憶が身体に蓄積されていなかった
カイヨワは結婚したが離婚し、子どもの記録はない。「子どもがいないから分からなかった」は安易な倊人攻撃だ。正確には「子どもが日々つくる空間に身体を反復的に晒す経験がなかった」──構造の問題である。
04
足りなかったのは体感ではなく「中動態という文法」
カイヨワは体感していたかもしれない。しかし記述する言語が能動態しかなかった。中動態という文法を持たない言語で園庭を記述すれば、必然的にパイディア(個の衝動)としてしか記述できない。
05
カイヨワの理論がテレビゲームの設計思想に実装された
カイヨワの失敗は学問の中にとどまらなかった。テレビゲームという産業がカイヨワの四つの快を精密に設計し、「私が楽しむ」を最大効率で提供する装置として実装した。理論の死角が、産業の死角になった。
01四類型が「私が楽しむ」を前提にしている 02パイディアの中にすでに「個」を読み込んだ 03園庭の記憶が身体に蓄積されていなかった 04中動態という文法を持たなかった 05テレビゲームの設計思想に実装された ALL LAYERS SHARE ONE BLIND SPOT: THE ACTIVE VOICE

カイワワの四類型はテレビゲームに実装された。
「私が楽しむ」の最大効率。
母親たちだけだ、何かが足りないと感じていた。

INDUSTRIAL IMPLEMENTATION

テレビゲームはカイヨワの四つの快を签密に設計した

カイヨワ理論は遊びを「個」に定着させた。競争する個、偶然に委ねる個、模倣する個、眩暈に沈む個。この定着は、学問の中だけで起きたのではない。テレビゲームの設計思想そのものが、カイヨワの四類型を土台にしている。

AGON
スコアを競う
ランキング
対戦
ALEA
ガチャを引く
ドロップ率
ランダム報酬
MIMICRY
キャラになりきる
アバター
RPG
ILINX
速度に酔う
VR
刺激の加速
↓ ALL DESIGNED FOR ↓

私が楽しむ」の最大効率

カイヨワの四つの快 テレビゲームの設計思想 「私が楽しむ」の最大効率 THEORY → INDUSTRY → ISOLATION

ここで一つ、長年の疑問があった。なぜ母親たちは、時代を超え、世代が変わっても、テレビゲームを頭ごなしに毛嫌いするのか。

テレビゲームの制作者たちは、カイヨョの分析を正確に受け継いだ。子どもたちが構造を読み解き、戦略を立て、試行錯誤の中で学べるように設計した。そこには教育的な愛があった。テレビゲーム世代はパソコンやAIへの転笋・応用が早い。ゲームの中で培った「構造を分析して解く力」は、確かに別の領域で生きている。

それでも、母親たちにとっては足りなかった。

ファミコンの時代から、プレステの時代、スマホゲームの時代を経ても、母親たちの抵抗は変わらない。暴力的だからではない。教育的でないからでもない。教育的であっても、制作者の愛があっても、学びの転移が証明されても、身体のどこかが拒んでいる。

THE MOTHER’S INTUITION

母親たちは、園庭を見ていた

保育園の送り迎えの中で、園児たちが鬼ごっこをし、砂場で何かをつくり、ただ走り回っているのを、何年も見続けていた。そこで起きていたのは、カイヨョの四類型のどれでもない。走っている子も、泣いている㭐も、端っこでぼうっとしている子も含めた、あの全体。名前のつかない、あの空間の質。

母親たちは、この空間を毎朝、毎夕。身体に蓄積していた。言語にはできない。しかし身体が覚えている。あの場所の手触りを、あの空気の密度を、送り迎えという何年もの反復の中で知っていた。

だからテレビゲームを見た瞬間、何かが違うと感じる。ゲームの中にあるのは「私が楽しむ」であって、「みんなでつくる空間」ではない。制作者の愛は本物だ。しかしその愛は、カイヨワの層に向けられた愛であり、園庭のあの層には届いていない。届かないのは、愛が足りないからではない。愛が向かっている層が違うからだ。

そして父親はこの直感を共有しにくい。送り迎えを日常的にしていないからだ。父親の目にはカイヨワの快が見える。しかし母親の目には、カイヨワ以前の空間の不在が見えている

母親たちの直感は正しかった。彼女たちは学術的な言語を持たなかったが、カイヨワの遊び論が捨象した層──「みんなでつくる空間」という中動態的な遊びの原型──を、園庭という現場から直接知っていた。テレビゲームへの抵抗は、保守的な反動ではなかった。カイヨワの分析も、制作者の愛も、学びの転笋も、すべて認めた上で、なお足りないものがある。あの園庭を覚えている身体が発した、静かな警告だったのだ。

母親たちが園庭で見ていたのは、カイヨョの四類型以前の遊びだけではない。赤ん坊が初めて寝返りを打った朝。ハイハイを始めた日。立ち上がり、転び、また立ち上がった瞬間。園庭に走っていく背中。振り向いて手を振る顄。──その反復の中で母親の身体に蓄積されたのは、生命とは何かを、分析ではなく場所の記憶として知っている身体だった。

カイヨワが��びの中で見〽としたものを、近代の学問全体が見〽としている。分離が学問を成立させた。しかし分離は生命を見えなくする。母親たちだけが、園庭から持ち帰れなかったものがある。それは社会が「ブランク」と呼ぶ数年間に、母親の身体に蓄積された、生命の記憶そのものだ。

あの園庭の空気を、もう一度。

足裇で確かめる

「みんなでつくる空間」は
どこで消えるのか。

消えたものを、大人になってから
取り戻すことはできるのか

評価、序列、専镠化、効率化──
近代の構造そのものが、園庭の空間を解体する装置として作動している。

THE PRESCRIPTION ── NOASOBI SCHOOL

下駄で目覚め、裸足で遊ぶと、園庭のあの空間が立ち現れる

一本歯下駄GETTAで足裏と腹、背骨を活性化する。そのまま裸足で土を踏み、走り、遊ぶ。すると、自我が静まり、環境との境界が溶け、園庭のあの時の空間が立ち現れる。「みんなでつくる空間」が、大人の身体の中にも、子どもの身体の中にも、同時に起きる。

それを一回きりの体験に留めず、在り方にまで浸透させること。それが野遊びスクールの仕事であり、たぶん一生をかけた問いになる。

野遊びスクールでは、まず一本歯下駄で足裏と腹と背骨を目覚めさせる。次に裸足で土を踏み、鬼ごっこをし、砂場で遊ぶ。下駄が身体を活性化し、裸足の野遊びがカイヨワの四類型以前の層を呼び起こす。「みんなでつくる空間」が、和歌山市本町公園に立ち現れる。

RELATED ESSAYS

さらに深く

ESSAY
園庭の記憷──カイョワが見なかった遊びについて
カイョワが構造として遊びを見たのは、学者として正しい行為だった。しかしカイョワの身体に、園庭の記憶は蓄積されていなかった。カイョワはパイディアという概念で幼児の原初的な遊びの衝動を認識していたが、その中にすでに「自己を主張する個」を読み込んでいた。中動慉という文法を持たない言語で園庭を記述すれば、必然的にパイディア(個の衝動)としてしか記述できない。
全文を読む →
TREATISE
学者の限界と母親の可能性
カイヨワが遊びの中で見落としたものを、近代の学問全体が見落としている。母親が復聴するとき、社会は「ブランク」を見る。しかし園庭の送り迎えの中で母親の身体に蓄積されたのは、ブランクではない。カイヨワが持たなかった知──生命とは何かを「中から」知っている身体──だ。分離が学問を成立させたが、分離は生命を見えなくする。母親たちだけが持ち帰れなかったものが、ある。
全文を読む →

カイヨワの四類型では記述できないものが、
あなたの足裏にある

和歌山市本町公園・野遊びスクール 体験のご予約

足裏で確かめる
最近の記事
  1. 登録されている記事はございません。
TOP