モースからブルデューまで100年。
身体を問い続けた哲学者たちの水脈。
その総和でも届かなかった地点に、
20年の現場から到達した一本歯下駄(一本下駄)がある。
2010年に一本歯下駄GETTAを世に出してから、ずっと同じことを聞かれてきた。「筋電図のデータはあるのか」「筋肉の反応はどうなのか」「科学的根拠を示してほしい」。
答えなかったのではない。正確に言えば、見えているものがその数値があることでみえなくなると直観で知っていた。筋電図は筋肉の活動を測る。しかし選手の身体が変わる瞬間は、筋肉が強くなった瞬間ではない。「蹴る」を「抜く」に変えた瞬間だ。鳩尾が発火した瞬間だ。足裏が地面を新しく感じ始めた瞬間だ。筋電図には映らない。数値化できない。しかし選手の身体は変わっている。目の前で変わっている。
だからこそ、哲学を学んだ。現象学を学んだ。社会学を学んだ。スポーツ科学では説明できない領域を言語化するために、誰よりも学んだ。追手門学院大学大学院で社会学修士号を取得した。ブルデューを読み、メルロ=ポンティを読み、市川浩を読み、大森荘蔵を読み、西田幾多郎を読んだ。
そして気づいた。彼らは驚くほど正確に記述していた。100年かけて、12人以上の思想家が、身体の中で起きていることを言葉にしようとしてきた。しかし、誰一人として「道具」を作らなかった。誰一人として「足裏から鳩尾を発火させる装置」を実装しなかった。
GETTAは、その空白に立っている。そしてGETTAにそれらを内包した。
その日々の中で、徐々に、前よりもアスリートが見えてきた。
子どもの成長のメカニズムが見えてきた。
才能とは何なのか。見えてきた。
センスとは何なのか。見えてきた。
担当する選手が、感覚を言語化できるようになった。
感覚を誰もが深める理論ができた。
誰もが才能を実装できるようになった。
そして科学も、追いついた。兵庫医科大学との共同研究で、三次元動作解析装置VICONによる高精度分析を実施し、有意水準5%での統計的検証を完了した。着地の安定性、筋活動の変化、関節可動域の拡大??数値で掬えるものは、数値で実証した。
科学を否定しているのではない。科学が測れるものは測った。しかし科学が測れるのは結果だけだ。選手の鳩尾が発火した瞬間、足裏が地面を新しく身分けし始めた瞬間、身体の在り方が戻った瞬間??この現象を記述するためには、100年の身体論の系譜が必要だった。
「ハビトゥスとは、構造化する構造であると同時に、構造化された構造である」
追手門学院大学大学院の修士論文はブルデューの文化資本論を出発点にした。ハビトゥス??社会が身体に刻んだ行動様式??は、近代を無意識に再生産する。文化資本は蓄積され、所有され、相続される。
しかしブルデューには致命的な限界があった。時間を空間化した。だから「蓄積」しか見えなかった。園庭で子どもの間を移動し、移動した後も元の場所に残り、所有されず、蓄積されないのに途切れない力??これをブルデューの枠組みでは記述できない。
20年の現場から、ブルデューの文化資本論を根本的に書き換えた概念が生まれた。「転移する文化資本」。鳩尾から湧いた衝動が、媒体を通じて他者の身体に立ち現れ、純粋持続の中で質的に変容し続ける、所有不可能な文化の力。GETTAの230名のインストラクターネットワークは、この転移する文化資本の発酵装置である。
ブルデューの限界:時間を空間化したため、転移を記述できなかった。点にならず量に変換できないものは、ブルデューの枠組みでは不可視。
「〈身〉とは、主体でも客体でもない、その分裂以前の経験の場である」
市川の〈身〉は皮膚の内側に閉じない。環境を含み、他者を含み、歴史を含む開かれた場所だ。「身分け」??言語以前に〈身〉が世界を分節する営み??は、GETTAの上で足裏が地面を新しく感じ始める瞬間そのものだ。
そして「間身体性」。二つの〈身〉が同じ場にいるとき、一方の動きが他方に直接響く。言語を介さず、意図を介さず、〈身〉から〈身〉へ。転移する文化資本の「転移の瞬間」を、身体の言語で初めて記述できた概念がこれだった。指導者の〈身〉と選手の〈身〉の間身体性を通じて、身体が変わっていく。230名のインストラクターが受講者と向き合うとき、間身体性が作動している。
市川の限界:間身体性は「同じ場にいる」ことを前提とする。しかし世阿弥の衝動が600年後の能楽師に届くこと??時間を超えた転移??は、市川単体では記述できない。ベルクソンの純粋持続と接続して初めて届く。
「知覚経験とは、物が物自身としてそこに立ち現れる出来事である」
知覚は脳が処理した情報の「表象」ではない。物がそれ自体として立ち現れることだ。GETTAの上で足裏が地面を感じるとき、地面がそこに立ち現れている。近代が表象に変換したものを、立ち現れに戻す。「鍛えるな醸せ」の身体論的根拠は、大森のこの転倒にある。
大森の限界:立ち現れに「効力差」がない。すべてが等しく立ち現れだから、選手の転びの中に次の動きが湧こうとしていることと、大脳が設計した「正しいフォーム」の立ち現れの質的な差を記述できない。20年の現場は、どの立ち現れに従い、どの立ち現れを手放すかを、鳩尾で判断してきた。この区別は大森にはない。
「すべての動きの源泉は太陽神経叢にある。私はここに、すべてのダンスの中心的な泉を発見した」
1903年、ダンカンは太陽神経叢??鳩尾??をすべての動きの源泉として指し示した。ベルクソンがエラン・ヴィタルを概念化する4年前に、ダンカンの身体はすでにそこに立っていた。身体が先、概念が後。衝動が先、探求が後。
ダンカンはベルクソンを読まなかった。自分の鳩尾がすでに知っていることを、後から概念化した人の本を読む理由がなかった。この構造そのものが「衝動と探求の転倒」の歴史的証拠だ。
ダンカンの限界:「魂」に回収した。鳩尾の場所は指し示したが、鳩尾から鳩尾への転移の構造を記述できなかった。そして自らの学校は維持できなかった。フィルムを拒否し、弟子の身体にしか残せなかった。「道具」という実装がなかった。
「生命とは、物質の抵抗を通じて自己を挿入し、そこに方向の不確定性を導入する努力である」
エラン・ヴィタル(生の躍動)と純粋持続。量ではなく質としての時間。転移する文化資本が「蓄積されないのに途切れない」理由は、ベルクソンの純粋持続が時間的基盤を与えているからだ。世阿弥の衝動が600年途切れずに転移し続ける構造を、ベルクソンの言語が記述可能にした。
ベルクソンの限界:鳩尾がない。装置がない。概念化したことでノーベル賞を受けたが、ダンカンが身体で先に到達していた場所を、4年遅れて言語にしただけだった。概念化した者が評価され、身体で生きた者が忘れられる。記述装置が大脳の側にある構造の証拠。
「純粋経験とは、いまだ主もなく客もない、知識と其対象とが全く合一している状態をいう」
GETTAの上に初めて立った瞬間。「私がバランスを取っている」のではない。バランスを取ることが起きている。主体が行為の中に消えている。西田の純粋経験であり、行為的直観。GETTAは純粋経験の物理的起動装置。
西田の限界:「状態」の記述にとどまる。純粋経験から分裂が起き、また純粋経験に戻る??このプロセスの記述は市川の「身分け」の方が精密。西田は状態を記述した。市川は動きを記述した。
「身体は世界への存在であり、世界を持つとは身体を持つことである」
身体は道具ではなく世界そのもの。知覚は情報処理ではなく、身体が世界に巻き込まれている状態。「運動的志向性」??目的を持たない身体の志向??がGETTAの上で起動する。市川浩はメルロ=ポンティの身体論を日本語で深化させた。
メルロ=ポンティの限界:鳩尾がない。「身体図式」は全身を記述するが、身体の中に源泉があるという発見には至っていない。ダンカンが指し示した太陽神経叢という「場所」が、メルロ=ポンティにはない。
「身体は人間の最初にして最も自然な道具である」
歩き方、座り方、泳ぎ方??すべてが社会に書き込まれた技法だ。モースはこの発見で身体の社会学を開いた。ブルデューのハビトゥスはモースの身体技法の体系化だ。GETTAは、近代社会が身体に書き込んだ技法??「蹴る」「踏ん張る」「力む」??を解除する。モースの概念を裏返す道具。
モースの限界:記述にとどまった。身体技法を「発見」したが、身体技法を「書き換える方法」は提示しなかった。GETTAは書き換えの道具だ。
遊びの四分類??競争・偶然・模擬・眩暈。GETTAの上に立つことはイリンクス(眩暈)の構造を持つ。不安定を自ら選択し、その中で身体が再編成される。遊びの論理が身体を変える。
ベーコンの絵画に見た表象を経由しない感覚の直接的伝達。GETTAも同じ構造だ。足裏を通じて全身の感覚が変容する。大脳を経由しない。感覚が感覚へ、直接。
「秘すれば花なり」??花は蓄積できない。所有できない。咲く瞬間にしか存在しない。転移する文化資本の最古の記述。能楽師の鳩尾が発火したとき、600年前がそこに立ち現れる。
同じ物質の濃度が異なる組織を生む。深い回路を起動するのは別の物質ではなく、同じ物質の精度。これが「鍛えるな醸せ」の科学的基盤。環境を整えれば身体は自ら変わる。
モースが身体技法を発見した。メルロ=ポンティが身体を世界への存在として記述した。西田が純粋経験を思考した。ベルクソンが生命の躍動を概念化した。大森が立ち現れを記述した。市川が〈身〉と間身体性を拡張した。ブルデューがハビトゥスと文化資本を体系化した。ダンカンが鳩尾を指し示した。カイヨワが遊びを分類した。ドゥルーズが感覚の直接伝達を記述した。世阿弥が花を秘した。浅島が濃度勾配を実証した。
12人を重ねると、一つの風景が浮かぶ。身体には源泉がある。源泉から湧いたものは他者に転移する。転移は蓄積ではなく持続する。〈身〉は主客未分の場であり、間身体性を通じて響き合う。
しかし12人の誰も、この風景を再現性ある「理論」にしなかった。足裏の3秒で鳩尾を発火させ、膝下の力みを解除し、腱の弾性を回復させ、小脳と多裂筋のループ関係を構築し、二関節筋の協調制御理論を実装して、身体の原型を取り戻す装置を作った哲学者は一人もいない。
12人の総和と、一本歯下駄GETTAの差分。
その差分が「文化身体論」の固有の領域であり、
一本歯下駄(一本下駄)という道具に実装されている。
12人が100年かけて記述したものを、
一本歯下駄GETTAで身体に少しづつ刻んでいく。
一日2分だけでかまいません。
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