第2章

文化身体論の伝承と機能

西洋化によるハビトゥスの再生産を超えて、失われた身体文化を現代に蘇らせる。 能楽の伝承的保存と道具の機能的保存を手がかりに、実践的な文化身体論を構築する。

2.1

文化身体の伝承的保存

前章では、身体文化論で語られてきた身体文化、身体技法の再現性が社会化されない構造は、西洋的価値判断で身につけたハビトゥス、西洋的価値観から起こる西洋化によるハビトゥスの再生産が存在していることを述べてきた。これを乗り越えるためには、価値判断の形成を組み替えるための界(Champ)が必要とされることを指摘した。

2.1.1 能楽における伝承的保存性

日本を代表する伝統芸能であり、舞台芸術である能楽は、600年以上前の中世からの身体文化、身体技法を型によって脈々と受け継ぐ身体文化が伝承的に保存されている界(Champ)である。

知人の能楽師から教えられたことがある。室町時代から五十六代も続く芸能を引き継ぐその人は、袴の裾をからげて筆者に脛を見せ、『この馬蹄形の彎曲があることによって、板の間でも脛が当たらずに、長時間坐っていられるのです。この脚の形は一代では作れません。私たちは永い歴史のなかで、この体型を作り上げてきたのです』ということを教えて下さった
? 矢田部英正(2011:11)
能役者の身体は、何世代にも渡る能にまつわる身体の記憶を伝承し、構造化していることにその特徴がある
? 南果実(大野道邦・小川伸彦・南果実編,2009:40)
能楽における型の伝承の特徴:
  • 師匠の元に入門して型を学ぶが、その型についての質問は一切許されない
  • 型の意味を求めず、ひたすら与えられた型を繰り返す
  • 舞台の上で何百年前から繰り返されてきた型の意味が身体からにじみ出してくる
  • 型に何百年も前から閉じ込められたものが舞台上で解凍される

2.1.2 能楽における身体技法

価値判断の形成を組み替えるための代表的な界としての能楽であるが、価値判断の基準として、能楽における身体技法が如何なるものかを紐解いていく必要があろう。能楽の代表的な身体技法は、腰を入れる構えとすり足である。

具体的には『腰の蝶番のところに緊張を集めて』立つことであり、『一本の線のように抽象化された歩きかた』である
? 松岡心平(2004:225)
内田樹による解説
能楽の「構え」の歴史的変遷

この間、松岡心平さんにうかがった話ですけれども、能でも、今のような『構え』というものはなかったそうです。今は稽古のとき、立って、まず『構え』を作るところから始めるわけですけれども、昔は「構え」というようなものはなかった。ただ、立っただけでもうかたちができていた。

能は中世の日本人の身体運用ですから、着物を着て、床に座って暮らしている人なら、どういう所作をしてもさまになる。でも、近代になって、洋服を着て、靴を履いて、椅子に座る生活をするようになったら、その生活での自然な構えではもうかたちにならない。

だから、胸を落として、股関節を解放して、膝と足首を少し曲げるという『構え』を意図的に作らないといけなくなった。この場合は『中世日本人の身体』を教えるために型が存在するということになります。

? 佐藤友亮(2017:213)

能楽と剣術の交流
禅鳳以来、金春家代々には武芸の嗜みがあった
金春氏勝は柳生石舟斎から兵法の極意を授けられた
室町時代の一線級の能役者は武士に近い存在
禅をモデルとする精神集中において兵法と能は近い
「カマエ」という言葉も武道用語の転用

2.1.3 仮想的界としての能楽

ここまで、能楽という界(Champ)がいかに身体文化、身体技法を伝承しているかを論じてきたが、多くの人にとって今から能楽師になるということも、能楽という界の中に身を置くことも現実的ではないだろう。そこで、仮想的界として能楽を頭の中に置くということで考察を進めていきたい。

仮想的界による実践プロセス
実践者が対象を自ら信頼し、「善いもの」とした上で、その対象の世界へと自己の意識を潜入させる
能楽の界とそれらの総体となった、自身の「身」の二つの事柄の間を往復運動していく
推論と実践を積み重ねることで、西洋化によるハビトゥスの再生産に歯止めをかける
「身」と仮想的界である能楽の二つの事柄の間を往復運動することで生成活動へと変容
実践例:野球選手の場合

実践者が野球界で選手として活動している場面を考えたい。実践者は、走る、投げる、打つと、如何なる行為における姿勢や身体運用時においても、野球界やスポーツ界の常識と言われる判断がもちいられる場面を、仮想的界である能楽と照らし合わせることを試みる。

打撃フォームにおいて、能楽の腰を入れた構えを取り入れた方が良いのではないだろうかという推論と実践が始まり、そこからの試行錯誤という生成が始まっていくのである。

2.2

文化身体の機能的保存

2.2.1 道具における機能的保存

仮想的界の存在は、これまで無意識的に西洋化されてきた価値基準や身体技法に対して、それとは別の価値基準や身体技法が存在することの認識を実践者に促すことが出来る。しかし、残念ながら仮想的界を導入するだけでは、失われた身体文化、身体技法を再現することは難しい。その理由として、能楽をはじめとした伝統的世界における伝承は、師匠という導き手の存在がいてこそ推論が意味あるものとして成立しているが、仮想的界ではその師匠という導き手が不在だからである。

日本の伝統的道具の特徴(川田順造):
  • 西洋の道具や服飾は「人間非依存」の技術特色
  • 日本の伝統的な道具や服飾は技術に関する「人間依存性」
  • 箸に代表される機能分化していない単純な道具
  • 使い手の器用さによって多種多様な用途にて使える
  • 着物は着る人間の身体性や動作に依存
実践事例
尺八奏者・中村明一の実践

中村は、尺八という日本の伝統的楽器を始めた際、自分の身体やこれまで積み重ねてきた自らの演奏法と、尺八とが合わないことに気づく。中村は、尺八という音を出すことにおいて合理的ではない道具が悪いのではなく、自分がそういう身体をしていないから上手く吹けないのだと考え、尺八が使われてきた時代の身体文化、身体技法を探求した。

どのようにしたら尺八を上手く吹けるのかを、過去の文献を手がかりに試行錯誤する中、道具に身体を合わせていくのである。そうしていく中で、中村は現代で推奨されている姿勢や技法と離れたところに、尺八を吹くための密息、という瞬時に大量に息が吸える身体技法があることをみつけ、世界で活躍する尺八奏者になっていくのである。

たとえば、身体知の基底をなすと考えられる環境への馴致や道具との一体化を実現するには、そもそも現実の『場』に潜入し、親しく素材と触れ合い、用具に対してもこよなく愛情を注ぎこむことを日常としなければならない。そうすることではじめて用材の癖や素性をしっかりと把握し、それぞれの特性を活かすに足るだけの不可欠な前提条件が整ったことになる
? 柴田庄一(2006:102)
小次郎が体現しているのは、剣を道具として、人を斬るための便利なツールとして見るのではなく、剣には剣固有の生理があるという考え方ですね。剣には剣固有の導線というのがある。この線を進みたいという欲求がある。武道的感覚というのは、剣が発するその微かなシグナルを聞き取ることなんだと思う
? 内田樹(2014:89)

2.2.2 道具を介した思考化、意識化

前節で展開した、道具をそのまま使うのではなく、道具を対等・敬意していくということは、実践者が道具を通して、思考化、意識化したことであるともいえる。

ブルデューのハビトゥス概念は身体化以外の心の哲学の主要な関心である思考がいかに実践を生みだすかという問題にはほとんど踏みこんでいない
? 田辺繁治(2002:562)
ヒステレシス効果
過去の経験を放棄し、新たに組み替えねばならない状況。ハビトゥスは新しい経験との関連で絶えず変化し、不調があり、そのためらいの瞬間に、動作遂行時の実践的反省の影響を受ける。
からだメタ認知
諏訪正樹の「からだメタ認知」概念

身体と環境のあいだに成り立っている身体部位の動きと、その体感を「ことば」で表現しようとすることで、違和感や感触を表し、記録していくもの。

  • 微妙な差異を認知することを促す
  • 今まで気づかなかった感覚の変化に気づける
  • 道具から感じ取る情報、導かれる行為も感じ取れるようになる
  • 新たな問題意識や目的が生まれれば、同じ行為が違って感じられる
新たな問題意識や目的が生まれれば、同じ行為が違って感じられ、違う思考が生まれていきます。これまでは留意してこなかった眼差しや考えが生まれてきます
諏訪正樹(2016:135)
何かをするとその感じが現れ、何かをするとそれが消える。だから、その『嫌な感じ』と、身体をどう動かせばその『嫌な感じ』が消えるかについて、経験的にわかってくれば、身体は経験則に従って、ごく自然に『不快を避け、快を求めて』動くようになる
内田樹(2014:123)
2.3

文化身体の伝承と機能

人々が日本の伝統的な身体文化、身体技法を獲得するための実践も、西洋化によるハビトゥスの再生産に歯止めをかける界(Champ)が不在であるなかの実践のために、西洋化によるハビトゥスが再生産されてしまうことが身体文化論の限界であった。

文化身体論を構築する三つの要素:
  • 伝承的保存のある仮想的界 - 能楽を価値判断の基準とする
  • 機能的保存のある道具 - 下駄や足半などの伝統的道具を導き手とする
  • 道具と身体との関係を紐付ける『ことば』 - からだメタ認知による身体知の獲得
ハビトゥスは「知覚・評価・行動図式のシステム」であり、「環境との、構造化され構造する二重の関係」である
ピエール・ブルデュー(2009:236,245)
文化身体論における実践の展開
伝統芸能の能楽が如何に伝統的な身体文化、身体技法を「型」によって伝承されてきたかを理解する
能楽を仮想的界とすることで、無自覚かつ無意識であった行為や実践に推論が生まれる
西洋化によるハビトゥスと仮想的界の間に推論の往復が起こり、生成活動が生まれる
身体文化が機能的保存されている下駄や足半、着物といった日本の伝統的道具を直接的な導き手とする
道具を対等・敬意あるものとして、道具側からの働きかけを感じ取る実践を積み重ねる
「ことば」によって「身」と道具にある体感の変化に対する思考や意識を記録し、更新する
道具のなかに暗黙の使用マニュアルとして書き込まれている目的を自分のものにしおおせていなければならない。要するに、道具に使いこなされている、道具によって道具化されているのでなければならない。この条件を満たしてはじめて、ヘーゲルが言う『デクステリア(熟達)の域』に達することができる
ピエール・ブルデュー(2009:244)
文化身体論の本質:
これまで、身体文化論では、伝統的な身体技法や機能的保存のある道具について論じられてきた。しかしながら、ブルデューが「資本は界との関係なくしては存在することも機能することもできない」(2007:137)と論じたように、文化資本として、伝統的な身体技法や機能的保存のある道具を機能させる仕掛けが存在していなかった。

身体文化論は、界とハビトゥスによる関係だけでなく、文化を文化資本として存在させることができていなかったと言えよう。すなわち、これまでの身体文化という視点ではなく、文化資本を機能させる文化身体という視点が求められるのである。
結論
第2章のまとめ

「伝承的保存のある仮想的界」、「機能的保存のある道具」、「道具と身体との関係を紐付ける『ことば』による身体知を高める行為」からなる実践が、西洋化によるハビトゥスに対してヒステレシス効果を及ぼし、ハビトゥスを変容させていく。

これまでの身体文化という視点ではなく、文化資本を機能させる文化身体という視点こそが、失われた日本の身体文化を現代に蘇らせる鍵となる。