本論 第1章

身体文化論の限界

なぜ従来の身体文化論では、失われた日本の身体技法を再現できないのか。 西洋化によるハビトゥスの問題と、界(Champ)の不在が生み出す構造的限界を解明する。

1.1

身体文化とは何か

人々が知らず知らずのうちに身につけている社会ごと、民族ごとに固有な振る舞いの形式を、マルセル・モース(Mauss,1976:121-156)は「身体技法」と名付けた。社会や民族において永い歴史を通して培ってきた「身体技法」は、身体文化の一要素である。

身体文化の構成要素:
  • 身体技法 - 社会・民族固有の振る舞いの形式
  • 身体観 - 身体をどのように捉えるかという認識の枠組み
  • 身体と道具の関係性 - 道具を通じた身体の拡張

身体技法の歴史的断絶

日本において日本の身体文化として論じられる多くは、齋藤孝(2000)、内田樹(2014)、松岡心平(1991)が論じるように、多くの場合、鎌倉期から昭和初期まで(近代以前)にみられた日本の伝統的身体技法に起因する。

履物や服飾の変化も含めた西洋化により、すでに多くの日本人の日常から、その身体技法が昭和初期を境目にして失われている
? 矢田部英正(2011)

日本人独自の身体観

身体技法とは異なる身体文化の一要素として、日本人独自の身体観があげられる。能楽師の安田登(2014)によると、その身体観は、現在のように解剖学的に各部位を細部化して捉えるものと違い、例えば「膝」と言えば現代の私たちが想起する膝頭ではなく、太ももの前側全体を指し、「肩」と言えば、肩峰のみならず首肩まわりの界隈を指すように身体の各部位に対して曖昧なものと述べる。

腰腹部はもとより股関節や骨盤、仙骨、丹田、骨盤底筋、横隔膜までをも含み、さらには肉体のみならず心の状態まで表していました
? 松田哲博(2021:14)
 ハビトス/ハビトゥス
マルセル・モースの「ハビトス」は威光模倣による身体技法の意識的習得を重視。 ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」は歴史的無意識な刷り込みによる特定の傾向を持つもの。
1.2

身体文化論における姿勢、道具、動作

近代以前の日本人の姿勢

近代以前の日本人の姿勢や体つきをみていくと矢田部が指摘しているように、「洋服の似合う身体」(矢田部,2011:26)を価値基準として判断している現代の私達とは違った身体が浮かび上がってくる。

100年前の日本人の身体的特徴
資料集『百年前の日本−モースコレクション』より
・なで肩の猫背
・「みぞおち」部分のへこみ
・顎は少し上向きに突き出されている
眼球の上下運動に関与する筋がリラックスした状態なので、眼球を左右上下に素早く動かすことができ、胸鎖乳突筋など鎖骨に付着する筋も開放されている。これによって、反射的に身体を動かしやすい状態にすることができるんですね。その結果、脊髄反射が俊敏に行われるわけです
? 小山田良治(織田・小山田編,2011:104)

身体文化を体現する道具 - 足半(あしなか)

身体文化論で特に重点的に論じられている道具が、踵部分がない形状の草鞋である「足半」である。「足半」は文字通り足の半分しか台座の寸法がない日本独自の履物であり、台座の踵部分や足指部分がない。

足半の特徴と効用:
  • 足指が地面にはみ出して地面をつかむことができる
  • どんなに爪先に力を入れても鼻緒が切れない構造
  • 水にぬれても泥道でもすべることがない
  • 跳躍によく、転倒を防ぐ「昔のスパイク」
  • 戦国武将・織田信長が特に好んだ履物

なんば歩き - 失われた歩行技法

伝統的な履物を履いたときの日本人の歩行において、複数論じられている歩行がなんば歩きである。なんば歩きについては、様々な説が存在するが、高橋昌明は以下のように紹介している。

常歩は両足の立ち幅を骨盤幅に保ったまま、身体に左右二本の軸を置く。そして、両足は二直線のうえをそれぞれ通過する二軸動作の歩行法である。つまり体幹をほとんどねじらない。この歩行では、着地した足が前に出るとき、同じ側の肩・腕が同時に前に出る。着地と離地は地面を蹴る感覚ではなく、足裏全体がぱっと一瞬に離れる感覚となる
? 高橋昌明(2007:71)
なんば歩きの身体的特徴
・つま先とかかとで地面をつかむ感じ
・足はガニ股、膝はやや曲がり腰は落とし気味
・あごも少し上る
・相撲のすり足、空手の蹴りや突き、能・歌舞伎などの所作に今も残る
1.3

身体文化論に関する見解

これまでの身体文化論の多くが、モーリス・メルロ=ポンティの「身体図式」(Merleau-Ponty,1967:172-174)「習慣的身体」(Merleau-Ponty,1967:240-246)を前提として論じられてきている。

身体図式とは
位置関係や距離感といった、空間をも含み、皮膚表面を越えて広がり、道具をもその一部に組み込んだ身体的経験の一つの要約。習慣などの繰り返される経験により、組み替え、更新されていく。

例えば、車の運転に慣れていくと、道路側と車幅を比較して計測をしなくとも、狭い道に車をすすめることができるというように、意図と遂行とのあいだの合致を獲得すること(Merleau-Ponty,1967:242)によって環境と身体の間でわざ化されていく事が挙げられる。

身体図式の成立条件:
私達が生きる社会において外を歩けば車が行き交い、家族、親族の誰かは車を運転しているといった具合に、車に乗ることが日常化された社会にいるからこそ、運転の正しさについて共通認識が組み込まれた世界の中で身体図式が成立する。
1.4

身体文化論の限界

身体文化論で取り扱われる身体文化、身体技法は矢田部や齋藤が論じてきたように、名残こそあれ、社会の中では失われている。そのため、身体文化、身体技法においての正しさの共通認識が人々の中に存在していない。これにより身体図式、習慣的身体では、身体文化として成立が難しい状況にあるといえる。

身体文化論の構造的問題:
  • 身体文化を再現するための実践の際には、昭和初期以降の社会的環境の中で長い時間をかけて日本人が習慣的に獲得してきた西洋化によるハビトゥスが関わってくる
  • 身体文化を実践する上での界(Champ)が不在
  • 身体、動作に対しての価値判断は、無意識的に西洋的価値判断を上位として包摂される
界(Champ)とは
芸能界、政治界、ボクシング界といった個別的な空間を指す。この個別的空間には、各々が境界をもつことによる歴史的個別性が存在し、個別に社会空間や他の界とは異なる価値観や規律が存在する。つまりは、諸制度という形で界の中に客体化された歴史が存在する(Bourdieu,2018:157)。

このため、多くの人々はいくら身体文化論で論じられてきた身体技法を反復し、習慣化しても、身体文化のための界が不在な限りは、そのための構造も存在せず、実践の内容は次第に西洋化によるハビトゥスが再生産されていくのである。

文化資本は界との関係なくしては存在することも機能することもできない