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Ancient Wisdom for Modern Performance
古の叡智を、最強の武器に。
スポーツ指導者のための文化身体論
選手の成長が頭打ちになっていませんか?本稿は、武術や能に伝わる日本の伝統的身体技法を解き明かし、現代スポーツの指導に革命をもたらす「文化身体論」を提唱します。「形」の模倣から「型」の体得へ。選手の潜在能力を120%引き出すための、新たな視点と方法論がここにあります。
指導の核心へパフォーマンスを覚醒させる4つの鍵
選手の「なぜか上手くできない」を「なるほど、これか!」に変えるための視点。
1. 「形」と「型」の決定的違い
正しいフォーム(形)を教えているのに、なぜか動きがぎこちない。それは「形」の模倣に留まっているからです。身体の深層と繋がる「型」を体得した時、選手の動きは再現性と応用力を備えた本物の技へと昇華します。
2. 「間」が生み出す絶対的優位
一流選手が持つ独特のリズムやタイミング。それは「間」を制している証です。動作と動作の間に存在する「間」を意識させ、コントロールさせることで、相手の予測を上回るプレーが可能になります。
3. 道具を身体の一部に変える
バットやラケットを「使う」のではなく「対話する」。日本の伝統では道具を身体の延長と捉えます。この感覚を指導に取り入れることで、道具は選手と一体化し、人馬一体ならぬ「人具一体」の境地が拓けます。
4. 感覚を言葉にする「からだメタ認知」
「グッ」「スッ」「パンッ」。感覚をオノマトペで表現させることで、選手は自身の身体内部で起きていることを客観視できます。感覚の解像度が上がり、選手自身が動きを修正していく自己組織化を促します。
文化身体論 全文
序論
1. 緒言
元来、日本の文化にはさまざまな「型」があった。「型」の研究を行う大庭良介は以下に述べる。
「日本における古武道では、ほぼすべての流派に独自の型とその組み合わせである型体系が存在し、修行者は型を通じて稽古を重ねる」
(大庭,2021:16)
日本における古武道では、ほぼすべての流派に「型」が存在していることを論じている。さらに、評論家であり、伝統文化における技術の伝承についての研究家でもあった安田武は、日本文化のなかに存在した「間」と「型」が、日本の日常に薄れつつあることを指摘している(安田武,1984:50)。この日本の日常に薄れつつある「間」や「型」であるが、大庭は「型」について、下記のように論じる。
「『型』は、武道では決められた一連の動作から構成され、それぞれの武道の核心となる技・業を伝える教範である。伝統的な芸能や医学にも見られる叡智の表現と伝達の方法であり、東洋に特徴的な事物へのアプローチといってもよい」
(大庭,2021:3)
このように「型」が叡智の表現と伝達の方法であるとすれば、身体運動におけるトレーニングやトレーニングメニューといった同じ「形」の動きでも生じる個人差、固有性の差は、素質や才能と考えられてきたものとは別に、「型」によって証明できるとも言えるのではないだろうか。
教育哲学者の生田久美子 (1987)は、伝統芸能の学習者の動きの習得度合いにおいて、一見同じような動きにおいても「形」と「型」の違いがあることを論じている。さらに生田は、「型」には「間」が存在しているとも論じ、この「型」と「間」への考察についてマルセル・モースの身体技法の中核概念である「ハビトス」の概念を用いて、身体運動を解剖学的、生理学的な観点を超えて、心理学的、社会学的考察の必要性があることを指摘している(生田,1987:25)。
2. 本研究の射程
本研究では、文化身体論の構築において、能楽のように身体文化が伝承的保存をされている伝統芸能、足半(あしなか) や一本歯下駄、尺八のように身体文化が機能的保存をされている道具に着目し、これらに保存されている身体性との相互作用によって表象される身体を、文化身体論という新たな枠組みで構築していくことを目的とする。すなわち、本研究が目指すところは、これまでの身体文化論研究のように、数百年前の日本人の歩き方といった身体文化、ならびに身体技法の形式 (形) への着目に留めることではない。伝承、そして、道具に内在する文化がどのように身体との関係の中にあるかを分析し、再現性ある実践の足がかりとするものである。
3. 身体文化論の視座と系譜
身体文化論を代表する研究の中で、身体と道具、文化について論じているものが、哲学者であり身体論者である市川浩による『精神としての身体』 (1992) 『「身」の構造』(1993)である。市川は、精神と身体とは同じシステムの両面を成し、両義的であるため、その両義性を表すことばとして「身」を用いた。市川の「身」の捉え方は、身体と道具、文化が如何にして互いに作用していくのかを考える上でおさえておきたい内容である。
本論
第1章 身体文化論の限界
1.1. 身体文化とは何か
人々が知らず知らずのうちに身につけている社会ごと、民族ごとに固有な振る舞いの形式を、マルセル・モース (Mauss, 1976:121-156) は「身体技法」と名付けた。社会や民族において永い歴史を通して培ってきた「身体技法」は、身体文化の一要素である。日本において日本の身体文化として論じられる多くは、多くの場合、鎌倉期から昭和初期まで(近代以前)にみられた日本の伝統的身体技法に起因する。今日までの身体文化研究においては、日本人の日常から失われた身体技法とは何かということに多くの視点が注がれてきた。
1.2. 身体文化論における姿勢、道具、動作
近代以前の日本人の姿勢や体つきをみていくと矢田部が指摘しているように、「洋服の似合う身体」(矢田部,2011:26)を価値基準として判断している現代の私達とは違った身体が浮かび上がってくる。資料から、日本人の多くは、なで肩の猫背で「みぞおち」部分はへこみ、顎は少し上向きに突き出されていることが確認できる。また、「みぞおち」について齋藤 (2000:176) は、日本の身体文化の中で重要なポイントであるのが「みぞおち」の柔らかさであるとし、矢田部 (2012:30) は現代でいわれる「胸を張る」は「みぞおち」を圧迫し、腰が抜けてしまうと指摘している。
1.3. 身体文化論に関する見解
これまでの身体文化論の多くが、モーリス、メルロ=ポンティの「身体図式」 (Merleau-Ponty, 1967:172-174) 「習慣的身体」(Merleau-Ponty, 1967:240-246) を前提として論じられてきている。身体図式は、習慣などの繰り返される経験により、組み替え、更新されていく。こうして、習慣により身体図式が確立されたのが、習慣的身体であると述べる。
1.4. 身体文化論の限界
身体文化論で取り扱われる身体文化、身体技法は矢田部や齋藤が論じてきたように、名残こそあれ、社会の中では失われている。そのため、身体文化、身体技法においての正しさの共通認識が人々の中に存在していない。これにより身体図式、習慣的身体では、身体文化として成立が難しい状況にあるといえる。何故なら、身体文化を再現するための実践の際には、昭和初期以降の社会的環境の中で長い時間をかけて日本人が習慣的に獲得してきた西洋化によるハビトゥスが関わってくるからである。
「多くの人々はいくら身体文化論で論じられてきた身体技法を反復し、習慣化しても、身体文化のための界が不在な限りは、そのための構造も存在せず、実践の内容は次第に西洋化によるハピトゥスが再生産されていくのである。」
第2章 文化身体の伝承と機能
2.1. 文化身体の伝承的保存
日本を代表する伝統芸能であり、舞台芸術である能楽は、600年以上前の中世からの身体文化、身体技法を型によって脈々と受け継ぐ身体文化が伝承的に保存されている界(Champ)である。能楽という界がいかにして型による伝承を徹底しているかについては、個人の主観が入り込むことを型の徹底により防ぎ、型の中に存在している言葉にできない意味を伝承していることが伺える。
2.2. 文化身体の機能的保存
仮想的界を導入した上での実践における重要性として強調されるものが、身体文化が機能的保存されている道具の存在である。能楽という界において、身体文化が伝承として保存されていたように、日本の伝統的な道具の一部においては、身体文化が機能的保存されているのである。文化人類学者の川田順造は、日本の伝統的な道具や服飾は技術に関する「人間依存性」がみられると指摘している。この「人間依存」の特色があるからこそ、道具を使いこなすためには、使いこなしてきたその時代(過去)の人間の身体文化をようする状況が生まれるのである。
「道具のなかに暗黙の使用マニュアルとして書き込まれている目的を自分のものにしおおせていなければならない。要するに、道具に使いこなされている、道具によって道具化されているのでなければならない。」
(Bourdieu, 2009:244)
第3章 文化身体論構築に向けて
3.1. 暗黙知の近位項を捉える身体
マイケル・ポランニー (2003) が提唱した「暗黙知」の概念は、知っているのは確かなものの、どのように知っているかを語れない知である。この暗黙知についてポランニーは、近位項と遠位項から成立すると説いている。近位項には、身体各部位の動きや身体感覚が分類され、行動するときのタスク全体など、身体の内から離れたものを遠位項とした。近位項における実践としてオノマトペの採用が有効である。
3.2. 身体感覚の二重構造を持つ身体
西村秀樹の論じた身体感覚の二重構造(2019)は、「自分の身体のうちに起きている身体感覚」と「身体から先の道具で起きている身体感覚」が同時に存在していることである。心と身体は身体感覚として一体化した上で拡張し、身体の先にある道具を拠点としながら、さらに道具より先へと拡張していくことを示している。
3.3. 間と型のある身体
「伝承的保存のある仮想的界」「機能的保存のある道具」「ことばによる身体知の深化」。この三位一体の実践が、単なる「形」の模倣を、奥深い「間」と、生きた「型」の体得へと導く。身体感覚の二重構造から、伝統的道具の中にある機能保存されていた身体文化、身体技法に内在していた「間」の感覚に気づき、「間」を会得していく。さらに、これら実践で体現した「間」の動作を自らの競技に応用して落とし込んでいくことで、自らの競技における「型」、その競技のトレーニングにおける「型」をみつけていくことが可能になると言える。
「『型』のある身体は、オノマトペやイメージ、比喩までも含んだ身体となることで、次の動き、どう動くべきかと頭や心で考える必要がなくなる。つまり、『無心』となる。それゆえに、環境に応対し、生成し続けられる状態が発生するのである。」
結論
第1章では、身体文化論の限界を指摘した。身体文化論は、身体図式、習慣的身体の視点であったため、社会世界の構造が身体化したものであるハビトゥスに、包括されている西洋化を捉えることができていなかった。そのため、西洋化によるハビトゥスの再生産の問題は置き去りにされ、身体文化論は身体技法の再現性の低いものとなっていた。
第2章では、西洋化によるハビトゥスの再生産に歯止めをかけるものとして、仮想的界を提示した。伝承によって伝統的身体技法が保存されている能楽を仮想的世界とし、足半や下駄のように機能的保存された道具と「ことば」を駆使することで、ハビトゥスを変容させる可能性を論じた。
第3章では、第2章で論じた実践を前提として、「暗黙知」の概念、身体感覚の二重構造を理解した上で取り入れた実践の先には、「間」の発見、会得があることを論じた。この「間」への気づきが、「無心」の領域である「型」の入り口となっていることを明らかにした。叡智を内包する規範を身体化するものが、従来の「型」とするならば、叡智を内包させながら規範を身体化したものが文化身体論の「型」である。このように、「間」や「型」を分析するのではなく、身体化させていく過程として文化身体論の存在を明らかにした。
文化身体論の実践によって獲得した文化身体によるハビトゥスと、文化資本が持つ価値は、各々が所属する界へと持ち込まれ、界の中で行われる闘争やゲームに組み込むことが可能となる。文化身体論の実践者は、文化身体によるハビトゥスと文化資本を所有する差異によって、界における位置関係をも変容させられる可能性を持つのである。
注釈
- 生田久美子(1987)は、社会学者マルセル・モースのハビトス概念をハビトスと表記した。本論考でも、モースのハビトス概念をハビトスと表記する。後述の社会学者ピエール・ブルデューのハビトゥス概念についてはハビトゥスと表記する。
- 自己組織システム論は、身体と精神とを区別せず両者がシステムを成すと認定し、このシステムが絶えず生成・消滅していると捉えるシステム論である。
- 身体パフォーマンスとは、実践において、身体が持つ力を引き出すことを指す。
- みぞおちとは、人間の腹の上方中央にある窪んだ部位である。
- 本論考では、思考や意識を必要としない動作に関して「わざ」と表記し、「技」と区別する。
- 社会学者ピエール・ブルデューのハビトゥス概念には、共同体の歴史として、思考のカテゴリー、理解のカテゴリー、認識の図式、価値基準のシステムといった社会構造の内在化の産物が含まれる。
- 界(Champ) 概念について、ブルデューは界とハビトゥスの関係において、ハビトゥスの働きは内在的な性質にのみ依存するのではなく、界が異なれば同一のハビトゥスも違う効果を生むものに変容すると論じている。
- 「間」とは時間的かつ空間的に流動の軌跡として切断したものが型であると安田武が論じたように、間とは流動の中でも切断が可能なほどに、身体的、時間的、空間的に一体化している状況、状態のことである。
引用・参考文献
- Bourdieu, Pierre, 1997, Méditations pascaliennes, Paris, Seuil. (加藤晴久訳 2009 『パスカル的省察』,藤原書店.
- 生田久美子,1987, 『「わざ」から知る」、東京大学出版会.
- 磯直樹,2008, 「ブルデューにおける界概念――理論と調査の媒介として」、『ソシオロジ』第162号.
- 市川浩,1993, 『身の構造』、講談社.
- 内田樹,2014, 『日本の身体』,新潮社.
- 大庭良介,2021, 『「型」の再考――科学から総合学へ』、京都大学学術出版会.
- 川田順造,2014, 『〈運ぶヒト〉の人類学』,岩波書店.
- 木寺英史,2020, 『歩き方の教科書』、朝日新聞出版.
- 甲野善紀,2003, 『武術を語る――身体を通しての「学び」の原点』、徳間書店.
- 齋藤孝,2000,『身体感覚を取り戻す――腰・ハラ文化の再生」,日本放送出版協会.
- 柴田庄一,2006, 「身体知の実践と継承――いまこそ『職人の叡智』に学ぶべきとき」、言語文化研究叢書第5号.
- 菅原和孝,2004, 『ブッシュマンとして生きる――原野で考えることばと身体』,中央公論新社.
- 諏訪正樹,2016, 『「こつ」と「スランプ」の研究――身体知の認知科学』、講談社.
- 高橋昌明,2007, 『歴史家の遠めがね・虫めがね』、角川学芸出版.
- 田辺繁治,2002,「再帰的人類学における実践の概念――ブルデューのハビトゥスをめぐり、その彼方へ」、『国立民族学博物館研究報告」,第26卷.
- 中村明一,2006, 『「密息」で身体が変わる』、新潮社.
- 西兼志,2015,「『ハビトゥス』再考――初期ブルデューからの新たな展望」、『成蹊人文研究』,第23号.
- 西村秀樹,2019, 『武術の身体論――同調と競争が交錯する場』、青弓社.
- Polanyi, Micheal, 1966, The Tacit Dimension 1966. (高橋勇夫訳,2003,『暗黙知の次元』,筑摩書房.
- 松田哲博,2021, 『四股鍛錬で作る達人』、BABジャパン.
- 松岡心平,2004, 『宴の身体』、岩波書店.
- Merleau-Ponty, Maurice, 1945, Phénoménologie de la perception, Gallimard, Paris. (竹内芳郎・小木貞孝訳,1967, 『知覚の現象学1』、みすず書房.
- 安田武,1984, 『型の日本文化』,朝日新聞社.
- 矢田部英正,2011, 『ただずまいの美学――日本人の身体技法』,中央公論新社.