両モデルは、学習者が意識的で規則に基づいた行為から、無意識的で直観的なパフォーマンスへと移行する過程を描く点で共通している。しかし、その前提、プロセス、そして到達点において、両者には決定的な差異が存在する。
ドレイファスモデルは、ある領域において全く経験を持たない「初心者」(Novice)から出発する。初心者は文脈から切り離された規則に従って行動し、経験を積むにつれて「中級者」(Advanced Beginner)、「上級者」(Competent)、「熟練者」(Proficient)へと進む。この過程は、膨大な数の事例経験を通じて、状況をより全体的かつ直観的に把握する能力が養われるプロセスとして描かれる。最終段階の「達人」(Expert)は、もはや規則を必要とせず、状況と一体化して流動的に行動する。
一方、「型」形成モデルの出発点は、経験の欠如ではない。むしろ、学習者は日常生活における「達人」、すなわち特定の文化的背景(西洋化されたハビトゥス)に深く根ざした身体知の持ち主である。したがって、このモデルにおける最初の課題は、スキルの獲得ではなく、既存のスキルセット、すなわち競合するハビトゥスの意図的な解体である。これは、ドレイファスモデルには見られない、文化変容という次元を導入する。
この比較から、「型」形成モデルが、普遍的な技能習得理論に対し、文化的コンテクストと身体化された美学の重要性を前景化する、独自の理論的貢献をなすことが明らかとなる。
茶道における点前は、茶を点てるための一連の洗練された動作であり、それ自体が高度に構造化された「型」である。茶道の修行は、この点前の稽古を積み重ねることから始まる。初心者はまず、日常的な身体の動かし方(西洋化されたハビトゥス)とは異なる、茶室空間に特有の立ち居振る舞いを学ぶ。これは、既存のハビトゥスの再生産を停止させる第一段階に対応する。
次に、学習者は茶碗、茶筅、棗といった様々な道具の扱いに習熟する。これらの道具は、長年の歴史の中で、最も合理的で美しい所作を導き出すようにその形態が定められており、まさに「人間依存性」を持つ。学習者は、道具が発する微細なフィードバック(茶筅が茶碗にあたる音、柄杓から湯がこぼれる感覚など)に耳を澄まし、道具と「対話」することで、そこに込められた暗黙知を探求する(第二段階)。
稽古が進むにつれ、指導者は「もっと柔らかく」「スッと」といったオノマトペや感覚的な言葉を用いて、学習者の内的な身体感覚に働きかける。学習者自身も、自らの感覚を言語化し、反省することで、所作の質を高めていく(第三段階)。
そして、長年の修練を通じて、学習者は個々の動作の正確さを超え、点前全体の流れの中に存在するリズムや呼吸、すなわち「間」を体得する。それは、亭主と客、道具、そして茶室空間全体が一つの調和した場を創り出す「一座建立」の感覚であり、身体感覚の二重構造化によって初めて可能となる(第四段階)。
最終的に、点前は意識的な努力の対象ではなくなり、千利休が目指したように、心を込めて茶を点てるという本質的な目的に奉仕するための、自然で無駄のない動きとなる。それは、もはや記憶にすら残らないほど自然な、無心の境地である。この状態は、その場限りの出会いを尊ぶ「一期一会」の精神を完全に体現する、生成的で創造的な能力に他ならない(第五段階)。
このように、茶道の点前の習得プロセスは、本稿で提示した五段階モデルと見事に符合する。これは、このモデルが単一の武道流派の特殊な方法論ではなく、日本の伝統文化において叡智を身体化するための、より広範で普遍的な教育学的パラダイムであることを強く示唆している。